映画『天地明察』から見る、日本暦の歴史

映画『天地明察』から見る、日本暦の歴史

現在使用されている暦についてその歴史を紐解いた映画『天地明察』が公開され、意外と知らない日本の暦形成までの苦悩と葛藤を知ることになった作品だ。何気なく使用しているカレンダーは、まだまだ世界でその技術を切磋琢磨して形成している。ここは天地明察のテーマにもなった暦を、ここでは映画と小説の内容と共に考えて考察するサイトとなっている。

テーマとなった『渋川春海』とは

碁打ちとして、学者として

活躍の場を広げる沖方氏だが、そんな彼が作りだした大ベストセラーとなった天地明察のテーマとして持ち上げられている『渋川春海』について、少し詳しく考察してみよう。渋川春海とは冒頭部分でも紹介したが、かつては天皇家に囲碁の指南を施してきた安井家の嫡子として生を受けた。つつがなく暮らしていたが13歳の時に父親が逝去したことにより、二代目安井算哲の名を継承することになるが、安井家は養子の算知が継承することとなり、算哲は一時的に『保井』姓を名乗ることになる。それから8年後、幕府から禄を受けることになり、御上碁に初出仕しすると、当時の本因坊道悦に黒番4目勝ちをしているなど、この頃より囲碁棋士としての才能を存分に発揮していた。それからは二世としての名に恥じないような囲碁棋士としての活躍をすることになるが、それも一時的な部分で、後に囲碁としてだけではなく、学者としてもその名を広めることとなる。

その頃から算哲として囲碁を続けながらも数学・暦法、天文暦学や和漢の書、そして土御門神道といった学問を学ぶことになる。こうした知識を身につけたことにより、算哲は暦法に関して自身で研究を重ねていくことになるのだった。

当時利用されていた暦の間違い

暦にずれが生じている問題は当時問題として上げられており、それに関係するように安哲もまた自身の知識と、中国の授時暦に基づいて中国や四国各地の緯度や経度を計測し、その時に出した結果を元に授時暦改暦を願い出る。だが彼が算出した授時暦による日食予報が失敗してしまい、間違った内容として彼の申請は却下されることとになってしまった。この頃用いられていた暦を元にしてみると予報では月食と日食の予報が2日も遅れていたこともあり、申請が却下されてもそれで研究をやめる彼ではなかった。高い志が合ったからこそ、それで終わる安哲、渋川春海でもあった。

その後研究に研究を重ねていくに連れて、かつて自身の研究が失敗してしまったのかその原因を探求して行くとある事実が浮上してくる。それは中国と日本では今で言うところの『経度差』があり、そして『地方時』や『近日点』の移動が発生するという事実も明らかになる。ここでいう近日点は『近点』ともいうもので、軌道運動する天体が、中心天体の重力中心に最も近づく位置と、最も遠ざかる位置のことを意味しており、こうした違いが中国と日本とで、計算に入れておかなければずれが生じてしまう原因となってしまったという。

原因を究明することが出来た渋川春海は、当時中国の暦として使用されていた授時暦の知識を保有していた朱子学者の中村惕斎に協力を要請し、彼の力を駆りながら自己の観測データを元にして授時暦を日本で使用できるように応用改変することによって、日本固有の暦としての原形である『大和暦』を作成することに成功した。そうして出来上がった大和暦を採用してもらおうと朝廷に申し立てるが、当時京都所御所の稲葉正往の家臣をしていた谷宜貞は渋川春海の作成した大和暦は全くのインチキだとして非難し、提出されていた大和暦を採用せず、授時暦の一部を改変しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。

こうした陰謀に巻き込まれながらも渋川晴海は、中国の暦をそのまま採用したところ日本においては適応しない暦だと主張し続けていた。そうした中、このまま埒が明かないと判断した渋川春海は、暦道の最高責任者としてその責務を果たしていた泰福を説得させて大和暦の採用に同意させ、これまで二度却下され続けていた大和暦は三度目の上表によってようやく朝廷としても正式採用されることになった。これが後に繋がる『貞享暦』として利用されることになり、これが日本で始めての国産暦として広くその名が知れ渡るのだった。

ただ渋川春海個人の能力は確かに突出していた部分はあったが、暦に対しての理解については彼の憧れでもあった関孝和よりも劣っていたとする説もある中で認められるようになったのは、中村惕斎や徳川光圀、泰福といったときの権力者の後ろ盾との繋がりを持っていたことも影響しているが、何よりも渋川自身の丹念な観測の積み重ねによって裏打ちされた暦学理論により、改変の実現がなされた事は紛れもない事実であり、彼自身の努力の賜物といえる。

沖方丁が愛した渋川春海

暦を作成することに成功した渋川春海は、その後幕府直属の天体を研究する機関である『天文方』という身分に就く事となり、同時に天文台の建設を認められる。その後幕府から武士としての身分も与えられるようになるなど、その地位を確かなものへと固辞して行くこととなった。暦学者として研究を重ねながらそれと平行して、囲碁棋士としても活躍していた渋川春海は、その後は暦を通して天体分野を研究し続けることとなる。その後生まれた嫡男に後釜を任せることになるが、息子が先に他界すると彼もまたその後を追随するようにこの世を去った。

渋川春海という学者、または囲碁棋士としての歴史は素晴らしいものである、だがしかし彼の生き様を知らないという人が少なくなくてもしょうがないかもしれない。現代において暦、または囲碁に対して関心を持っている人は決して多いとは言えないからだ。どちらも大衆という枠の中では決して切り離すことの出来ないものではある、だが現代で生きる人々にとってそれよりも重要なことがあるとして、意識がそれてしまっていると考えられる。そういう意味では、沖方丁が高校時代、それもまだ遊びたい盛りの年頃において渋川春海という1つの存在にほれ込み、彼についてレポートを作成したことは言ってしまえば中々の変人ともいえるが、同時に興味関心の対象が広いとも取ることが出来る。

渋川春海を取り上げた天地明察が登場したことで死後、約300年が経過した中で文庫作品、または映像作品として改めて知られるようになると共に、2012年には囲碁界において殿堂入りが決まるなどの動きを見せている。直接関係しているかは分からないが、渋川春海という暦を開発した学者でもあり、当時において天才囲碁棋士とも囁かれていた彼の人生を更に華々しくしたきっかけを作り出したともとれる展開を巻き起こした。歴史の中でどうしても埋もれがちだった知られざる天才は、どんなに時間が過ぎてもその名が忘れられることはないのだと証明されたといえる。